昭和42年6月3日 朝の御理解
日々を、神様のおかげを頂いておるという実感の中に、生活させてもらう、まっ例えて言うなら、とにかく信心をさして頂いておれば、おしみこの、おしわりきわりと言うか、その日その日のおかげを受けておるということがです、例えばあの、今日、(おかみが一つお参りがあった?)、それにいくらいくらいると言うのに、お金がないかと思っておるけれども、お願いをさして頂きよると、それが、何とはなしにとどまれていく、例えばあれが無いこれが無いといことを、あ~、神様何とはなしに、お繰り合わせを下さる、いよいよ信心の有り難さと言うか、神様のこうしたお働き、御守護を受けておるということを実感さして頂いて、まあ日々信心の稽古をさしてもらう、そういう時代がだいたいある、信心が確かに生き生きとしております、ね、勿論信心に以外もいたしません、ですから、おかげを落とすようなこともないですね、ところが段々おかげを頂きまして、少しゆとりが出けてくるようになります、いわゆるおかげの頂きすぎなんだ、まあ言うならば、え~、貯えも少し出来よる、もう一切の上にまあゆとりのある生活さしてもらえるようになる、私はどうでもお互いがですね、日々神様のそうした、その日暮らし的な、あ~、おかげの中からです、ね、貯えのあると言うか、ゆとりのある生活が出来るようなおかげを頂かなければならんと思う、ね、言うなら、え~、お道の信心をさして頂く者が、一人一人が一つ本当に億万長者的おかげを受けなければならん、て受けつい頂きたいと思うのですけれども、問題は、そういうゆとりのある信心、ゆとりのあるおかげを頂いた、的の信心が難しいのである、おかげおかげと言うておる、思うておるけれども、いわゆる、しっ、今日私、御神前出らして頂いたら、ある人が、やはりあの和服を着ておるんですけれども、何か胸のあたりがこ~う広がっておるようになって、もう帯をし直さなければ、というような感じなところを頂く、もうその人は最近、最近本当におかげを受けておるんですね、それでまあ、その日暮らし的なおかげでありますけれども、これが少ぉしゆとりが出けている、ゆとりが出けてから、それは私も気が付くくらいに、ちょっと信心が、あっ可笑しいなというくらいに、緩んできてた、いわゆる、その、胸がはらけて、え~、帯をし直さんならんといったような感じ、だからお互いが、「信心の帯をせよ」とこう、もう本当にその日暮らし的な、あ~ですね、おかげの中にもう日々が、油断も隙も出けんというような時には、有り難さザイシンもですし、いわゆる、更な心で神様へ向かうことが出来るのですし、信心の油断もまた、いたしませんのですけれども、少しゆとりが出けてきますと、それはもう人間の通有性とでも申しましょうかね、ちょっとゆとりが出来るともう信心の方がおろそかになる、よぉくお参りはしよります、ね、そこだけはしよると、御用も頂きよると、それだけではいけんのですね、ですからここにその人の場合信心の帯を締め直さなければいけないわけなのですけれども、う~ん、どうでもおかげを頂いて、信心のお徳によって、え~、尽きぬ、限りないおかげを頂き、しかもそこにはゆとりのある、ね、言うならば、まあ金銭の事だけじゃございませんけれども、銀行にはいくらかのいつも貯えがあって、いつどういうようなことがあっても、さあ、え~、子供っ、子供の結婚式、があっても、はぁそん時にはもうあの金から出しゃ良いから、さあ例え、おぉ不意に、金がいるようなことがあって、「いやあそこんとに貸して良か貰うて良かから」というくらいにです、ゆとりのあるおかげをもう頂かにゃならんとですけれども、それを頂くと信心に、緩みがくる、ですから神様はですね、ちょっとそういうようなおかげの見本を、見せて下さる場合があるんですね、そこを( ? )と言ったような、その、ところを(?)なるような、おかげを見せて下さる、そうすると、もし(?)、信心が緩むとまた元の木阿弥、また同じ事で難儀しなければならない、ね、それではいけんですから、もう本当にこの氏子になら、いくらの金を持たしてもどんな物を持たしても大丈夫と、お~言われ思われるだけの、信心をですね、結局その日暮らし的な信心の時にしっかり頂いておかなければならんのと言うことでございます。
私共こうやっておかげを受けて、本当におかげを受けすぎるぐらいに受けてるんですけれども、なら自分でも、おかげを落とすようなことがあっちゃならないと、勿論思いますし、信心の油断もしちゃならないと思うんです、と言うてうんなら、私が、え~、さあ信心をさぶるといったようなことが、形の上においては、無いようにありますけれどもですね、やはり自分ながら、「あっここは信心の帯をし直さないけんな」と自分で思うことがあるんです、ね、ですから、え~、っとにあの、おかげを受けました時、いわゆるおかげを受けた暁のことをですね、一つ思う、神様には、あの、しっかり繰り返しお約束しときゃにゃいけませんですね、うん、現在こうやって難儀をいたしておりますけれども、それでももうおかげを頂いてから日々、何とはなしに、おしやりきやりにおかげを頂いておる、いやおしやりきやりどころか、まあその日暮らし的なおかげを受けておる、っとに神様の働きの間違い無さに、あぁ驚くぐらい、ね、と言うてならこれで良いというのじゃない、ゆとりのある例えばおかげも頂かなければならんのですし、また大きな御用でもさして頂こうと思うからには、やはり、い~、まあ億万長者とはちょっと、お~、おおげさですけれどもですね、やはり億万長者的徳も受けて、何不自由ない人間の幸せを王化出来れるおかげを頂かなければならん、ね、例えばそういうようなおかげを受けましても、決して信心の帯を緩める以外のことではないというです、ここんところがしっかり繰り返し繰り返し、神様にも申し上げられ、自分の心にもそれを言い聞かせて行かなければならん、これは、っと皆さん必要なんですよ、なら椛目にそういうまだ億万長者的な、と言うか、そういうてのあるような人はないけれども、どうでも受けてもらわなければならん、と私は思うのです、ですから皆さんが、現在の今日的なおかげをいう受けて行くというだけではなくてです、ね、げっ、ね、「良し例えばこのようなおかげを受けましてもどのようなおかげを受けましても、それを御粗末にするようなことは御無礼にすっ、になるようなことはいたしません」と、もう受けた時のことをですね、私は心に、繰り返し自分で、自問自答するとか、ね、または神様にそのことを、お約束して行けれるという信心が出けなければですね、いけません、やっぱ神様がおかげを下さるはずがないですもんね、それであってもです、今日私が申しますようにね、そういう例えば、もうこんっ、金輪際、どのようなおかげを受けてもです、おかげを落とすようなことはないという、まあ、あっ、そういうことは、信心の帯を緩めることはいたしませんというようなです、もう繰り返しの、おぉ心の中に神様にも誓い、神様にもお願い申し上げておるんですけれどもです、そこが人間です、やっぱ緩むんです、ね、けれどもですね、それがやっぱりあの、そういうその日暮らし的な時に、しっかり神様に、それで信心が出けておりますと、その、もとずく事が早い、ね、神様との本当の意味での交流が、パッとこう、薄うなってきただけでも、「はっ」とこう気が付かして頂いて、「元に戻らにゃん、あぁ元に戻らにゃならん」って、「信心の帯をし直さなにゃらん」という、いきがすぐ出来るのです、ね、皆さんそういう、そういうこともお願いなさらにゃいかんです、今のままではいかんのです、今のままでも実を言うたら信心いいようなおかげを受けておるのです、勿体無いようなおかげを受けておるのです、きえてもそれはどこまでも、その日暮らし的なものだということ、ね、それは百様のその日暮らしから、二百様のその日暮らし、千様のその日暮らしが出来るようになったとは言いながらです、やはりまだそれはその日暮らしなのだ、ね、どのようなおかげを頂かして頂くようになっても、やはりそこにゆとりのある、徳を受けたいと、ね、そういうおかげを頂いた暁のことをです、私は、神様にしっかりお約束して行かなきゃならん、ねこれは、健っ、金だけのことじゃないですよ、健康の場合だってそうです、ね、「健康のおかげを頂かせて下さい」「健康のおかげを良し頂きましても、御粗末御無礼にまたこの体を使うようなことはいたしません」と、ね、例えば胃の悪い人がです、大酒大食をしてから、物が食べられないような状態になっておる、ね、そこでその神様にどうぞおかげを願わしてもらう、良いのですけれども、ね、「良しなら今度は健康のおかげを頂きましても、今度はまた大酒大食で胃を悪くするようなことはいたしません」という、私はお約束が出けてこそ初めてです、また健康のおかげを下さるとこう思うのです、けれどもです、ね、そこが人間生身を持っとりますから、健康のおかげを頂くとまたそこの、緩みがちになるのです、ついつい食べてはならない物でも食べてしまうのです、ね、けれどもここんところをしっかり神様にお願いしお約束さして頂いておるとですね、そこんところの元づき方が早い、いわゆるおかげを落とさんですむ、お気付け頂いたらすぐ気が付く、あらっ、ちょっと信心、鏡の方みりゃよか、あらおうてくる事を、自分の鏡とさしてもらうならです、いわゆる自分のものはこんなにはだけておる、見苦しなっておるということが分かるとです、さあ信心の帯をちゃんとし直さしてもらおう、ね、どうでも一つ、私は今日はそこんところをですね、神様に改めて、ね、お約束申し上げれるような信心、そういう御祈念も御祈念の中に必要であると思いますですね。 どうぞ。